イラン皆既日食撮影記 児玉 英夫
チベット高原。雲の下に白い山並みが見える。
延々と続くゴビ砂漠。
私です。
右が連続撮影用カメラ、マミヤ・ユニバーサルプレス・69。中央が高橋P2S赤道儀、FC-50、ビデオ
日食撮影中の私(中谷さん撮影)
木漏れ日がすべて三日月型になった。
集まってきた子供たち
第2接触。12時02分39秒 (UT)。露出1/8秒
プロミネンス。12時02分52秒 (UT)。 露出1/8秒
内部コロナ。12時03分43秒 (UT)。 露出2秒
スィー・オ・セ橋。深夜までにぎわっている
橋の1階には店が並んでいる
イマーム・モスク
イマーム・モスク天井のタイル
ペルセポリスの巨大な石柱
出発間際になって,ちょっとしたトラブルがあった。
タイマー付きデジタル腕時計の時刻を電話の時報で合わせようとしたら, 液晶の文字が消えてしまった。電池切れである。 電池交換してもらう時間がないので,キッチンタイマーを持って行こうと思ったが結局入れ忘れた。 更に,ペンタックス67カメラの電池の予備があったはずだと思って探したが見当たらなかった。 どちらも成田空港での長い待ち時間の間にカメラ店で買えたのに,なぜか無駄遣いをするような気がして, 迷った末買わなかった。飛行機は中国大陸の上を飛んだ。
右は延々とゴビ砂漠が続き,左には遠くに雪をいただくチベット高原が見えた。 これを見ただけでも,がんばって来たかいがあったと思った。 テヘランで一泊し,翌日砂漠の上を1時間飛んで夕方人口200万の古都イスファハンに降りた。 途中はずっと晴れていたのに,
肝心のイスファハンは曇っていた。 ホテルの庭で夕食を食べている間に晴れてきて一安心。ヴェガが見えたアンタレスが見えたとみんな空を見ながら夕飯を済ませた。
ホテルの窓から北極星を見て赤道儀の極軸高度を合わせようとしたがライトアップの光がじゃまで出来ず、屋上に出ようとしたがドアに鍵がかかっている。 ホテルの前を流れるザーヤンデ川の河原に同室の中谷さんと行ってみると、下方通過前の北斗七星が見えたが, なにしろ
道路を横断するのが命懸けなので, とても赤道儀をかついで渡る気になれず極軸合わせは断念した。 福山の緯度のところに印をして来たので, それより少し下げて間に合わせた。

 翌日の日食当日は午前中も市内観光が予定されており, 現地での準備時間が少ないので,前夜のうちにカメラにフィルムを入れたりビデオの時刻を合わせたり細かい撮影 手順書を書いたりしてできるだけの準備をした。撮影現場はイスファハン郊外の田んぼの畦道だった。 素晴らしい並木があり, 木陰は快適だった。しかし, 日陰で太陽を撮影することはできない。気温は37度。 乾燥していて出た汗はほとんどすぐ乾くのだが,それでも長ズボンの中は汗が流れた。

 日食が始まった。 スケジュール表に従ってマミヤ69の5分間隔の多重露出をこなしていった。 連続撮影は一枚のフィルムの上に多重露出するので,一回でもシャッターを押すのが遅れたら不揃いになるし ,三脚を蹴飛ばせばすべてが水の泡,満点か0点しかない。タイマーがあればシャッターを切るたびに4分でセットし, 音を聞いてから待機すればいい。しかしタイマーがないと,他の事に集中している間に 時間が過ぎるかも知れないのでしょっちゅう時間を確認しなければならない。 8回シャッターを無事押し,9回目のシャッターチャージをしていたらカメラが グニャリと動いた

 あー,なんたることか!はるばるイランまで来てこんなことになろうとは!自由雲台の締め方と強度が足りなかったのだ。 前回インドでは雲台をプライヤーで十分に締め,撮影後カメラをはずそうとして雲台が壊れるほどだった。 今回は手で十分締めたつもりだったが,締め方が足りなかった。 雲台も軽量の三脚に縦位置に止めるために小さいものを使っていた。 インドでは片づける時間が十分あったので赤道儀の三脚に雲台を直接付けた。 今回は皆既後日食の終了を待たずに赤道儀から片づけられるよう連続撮影用のカメラは別の三脚に載せた。 荷物が増えるので三脚は軽量のものにした。こういったことがすべて失敗につながった。 せっかく空は晴れてくれたのに,無念。 ところが, その時通りがかった年配の人が, 「大丈夫,まだ時間はある!」と言われた。 そうか, こうなれば皆既をはさんで途中から途中まででも撮ればいいのだと考えた。 フィルムを次のコマに進め,撮影を再開した。 途中チェックしたはずの撮影時刻がなぜか無チェックになっていて, 混乱のためとうとう頭がおかしくなったのかと思った。 (これは前夜撮影予定時間を2つだぶって書いていたためだった。 それに気づいたのは1ケ月後)。警備の警官と話していてシャッターを押すのが遅れたり (皆既前3コマ目,39秒の遅れ)もうメロメロだった。連続撮影でのトラブルは他にも影響した 。 拡大撮影はタカハシの口径5センチフローライト屈折をバリエクステンダーと ペンタックスのXP24アイピースで強拡大して合成焦点距離を3700ミリとし, ペンタックス67にフジ220のNS160フィルムでおこなった。日本でのテスト撮影に基づき, 部分食はカメラの内蔵露出計で露出を決め撮影した。途中今回の日食のために買った 高倍率ファインダーに付け替え, 精密なピント合わせをした。 皆既1分以上も前に, マミヤ69とビデオと拡大撮影望遠鏡のフィルターをはずした。今回はインドのように ビデオカメラのフィルターをはずし忘れないよう気をつけた。 しかし, フィルターをすべてはずしてから,拡大撮影のピントを合わせ直さなかったことに気がついた。 フローライトレンズは皆既が近づいて温度が下がるとピント位置がずれてくる。しかし ピント合わせで望遠鏡に触ると, 太陽の位置もずれてそれを修正するのに結構時間がかかる。もう一度フィルターを付けて, 大急ぎで合わせ直すべきか?いや,間に合わないかもしれないしばらく迷った。 そのうちに時間は過ぎていった。連続撮影のトラブルで気力を使い果たし, 迅速な判断や行動ができなかった。結局何もしないまま皆既へ突入した

  皆既はシャッターの振動を防ぐために筒先開閉で撮影した。 バルブのシャッターをレリーズで開け, 振動が収まるのを待って「うちわ」のシャッターを切り,カメラのシャッターを戻し, フィルムを手動で巻き上げる。こうして一枚撮るのに10秒以上かかる。皆既の時間は1分40秒しかない。 あっという間に時間が過ぎていく。皆既時間がもっと長ければ, メキシコの時のようにピントを合わせ直す余裕があるのだが。 ビデオはレンズの前に2倍の テレコンバーターを付けて撮った。部分食の時は露出オーバーになるのでファインダーで 確認しながらシャッター速度を速くし,皆既の前にオート露出に戻した。 オートでコロナがちゃんと写ることは,1991年に村上さんがみごとなコロナを撮影して証明した。皆既前の太陽がまだまぶしい時にも, 自動的に絞りとシャッターが調節され, 月の輪郭と内部コロナがちゃんと写っていた。 隣にいた横浜の芦崎さんの声もはっきり録音され, すばらしい実況中継になった。(芦崎さんは小笠原日食とインド日食を経験。 インドでは村山定男さんの解説で見たそうである)。ビデオ画面には秒単位で時刻が表示される 録音されたシャッター音を後で聞いて正確な撮影時刻が書き出せた。 隣の中谷さんのシャッター音もはっきり録音できていた

 今回のコロナはメキシコ, インド日食にも増して美しかった.太陽の回りのいたるところにプロミネンスがあり, コロナも典型的な極大型でダリアのような形だった(コスモスのようだったと千葉の 小川さんの手紙にあった.コロナの透明感は秋のひざしに透けて見えるコスモスの花びら. プロミネンスはルビーに例えてあった.)クラブの15×45, スタビライザー付きの双眼鏡で10数秒間見ることができた。 (インドの時は皆既はわずか40秒.持って行った望遠鏡も双眼鏡も覗かないうちに終わってしまった.) 下の方に飛びだしているプロミネンスが見えた. 真っ赤ではなくピンク色だなと思った。コロナの流線については意識的観察はできなかった 。 裸眼では、最近の画像処理したどんな立派な写真よりはるかにくっきり見え、透明感があった。 こんな写真は誰にも撮れないからはるばる見に来たんだ.隣で双眼鏡を覗いた中谷さんが 「オー、オー!すごくきれい。」と叫んでいる。とうとう第3接触のダイヤモンドリングになり皆既は終わった

 誰からともなく拍手がわき起こった。 ところが出宮先生が元気がない. 「あーあおえんわー、この日食を最初にして最後にしようと思っとったのに。」 「えっ、どうしたんですか?」「シャッターがおりなんだ」「えっ?」 

こりゃアフリカまで行かにゃいけんわ 出宮先生は今回の日食のために 170〜500ミリのズームレンズとタカハシの新発売の軽量赤道儀を購入し、 日本でテスト撮影もしてシャッター振れのないのを確認し、完璧な準備をしておられた。ところが、 なぜか現地でカメラにエラー表示が出た。それを解消するためにあちこち触っているうちに、 いつの間にかオートフォーカスモードになってしまっていたらしい。ピントリングはガムテープで固定していて、 黒い太陽にピントが合わせられないカメラがシャッターレリーズを拒絶した。全く予想外の事態である。 写真は一枚も撮れなかった。出宮先生は再来年アフリカのザンビアまで撮り直しに行く決意である。夜ホテルの前の川にかかる 橋を中谷さん,芦崎さんと見に行った。川に沿って芝生公園になっており、 夜の10時頃だというのに沢山の家族連れが芝生の上に絨毯を敷き、 ガスボンベ付きコンロを使ってピクニックをしている。橋は2階建てで1階には お店が並び,2階が歩行者専用となっている.長さは300メートルくらい.車は通 れない.橋の下の浅瀬になった石畳を靴を脱いでたくさんの人が歩いている.みんな とても楽しそうだ.歩いていると次々に「ジャポネ?」と聞かれる.「イエス」と言うと握手を求められる. 写真に一緒に収まってくれと頼まれる. 若い女の子の集団がやってきて「イラン人に対する外国人の意識調査をレポートしたいから」といって 「イランの女性をどう思うか」「私たちの服装はどうか」などと英語で質問する。

 「私は早稲田大学に6年いました」という家族連れの紳士としばらく日本語で立ち話をする.昼間の日食で 疲れていなければ,もっとゆっくり散歩したいところであった.  翌12日は世界遺産にもなっている広大なイマーム広場とまわりのイスラム教の寺院等を見学. 夜,空路シラーズに入り,郊外でペルセウス座流星群も観望. 石油がリッター4円という国なので道路照明がふんだんにあり,期待していたほどの暗い空ではなかった.

 13日はバスでペルセポリス遺跡に行った.紀元前何百年という時代によくもこんなに巨大で精巧な石の建造物を作ったものだと感心した .遺跡のパノラマ写真をを撮るために山の斜面にある王の墓まで出宮先生のあとをフウフウいいながら登った. 67の55ミリレンズで3枚に収まるのを確認して左から1枚2枚と撮り,3枚目のシャッター を押したらミラーが上がりっぱなしになってカメラが動かなくなった.電池切れである. ぞっとした.皆既中によくぞ電池切れにならなかったものだ.  キュロス王の墓というのも見た.諸国の宗教や文化を尊重して統治したこの王に敬意を払い, アレキサンダー大王はその墓を荒らさなかったそうである.ところがインドに遠征して 帰ってみると何者かによって盗掘されていた.

ここで私は36枚撮り9本のフィルムを 使い果たした.インドの時には日食が終わったら一目散に帰国する3泊4日のツアーだったが, イランと日本は週1回しか直行便がないために、次の便までたっぷり時間があった。 それまで日本に帰れないのでたっぷり観光できた.しかし暑い国で真夏の昼間に歩き回り, 冷たい水をがぶがぶ飲んで夏ばてになってしまった.出された食事は量が多いせいもあるが 半分しか食べられなくなり.とうとうシラーズからテヘランにもどる時の機内食は夕食後 ということもあり全く食べられなかった.ビデオで撮った日食は,旅の途中で, ファインダーの白黒モニターとイヤフォンでたくさんの人に見てもらった. ハイエイトでもデジタルでもない,数年前中古で3万円で買ったビデオだが役に立った.ビデオを見ながらみんな自分のすばらしい体験を 反芻していたのだと思う.自分の網膜の奥に焼き付けた美しいコロナを引きだしていたのだと思う.

  私のような貧乏人が1分40秒のために30数万円も使うのはずいぶん無茶なことに思えるかもしれない。でもこれが結構 有効な使い方なのである。行くまでそれを楽しみに元気に働ける。帰ってからは何度も思い出して幸せな気分になれる。 毎月5000円ずつ貯金すれば5年間で30万になる。仕事や家庭の事情で、普通5年に1度行ければいいほうだから、そう非現実的な金額ではない。

 困ったお父さんだねーと娘たちと私の悪口を言っている女房には深慮遠謀がある。 2人の娘たちには、あの通りお父さんはあてにならないから自立せよと激励する。 お父さんにとって日食の想い出が大切な心の宝物であるように、世の中にはお金では測れない価値があるのだと 、私のいないところでクサイ説教をしているらしい。道楽者の夫も利用の仕方次第で結構役に立つのだそうだ。 実はあの30万はお母さんが指輪を買おうと思って密かに貯金していたお金だったと女房は娘たちに説明している。


拡大撮影は
結局ピンボケだった.私はそのピンボケの写真を見て,いっしょうけんめい自分が見たものを思い出そうとしている. でもピンボケだと思い出すのがむずかしい。 またいつかチャンスがあったら,もっと思い出しやすい,ピントのぴったり合った写真を撮りに行きたい

ペルセポリス全景

イマーム広場。向こうの端まで510メートルある