−−−  追 悼  −−− (児玉先生よりのご挨拶)


高橋忠義さんは、平成元年のアストロクラブ設立メンバーの一人です。

16年前に退職。天文ライフを満喫し始められた矢先に病に倒れ、

その後15年間の奥様の介護を受け、去る3月20日、

お彼岸の日に あの世に旅立たれました。




− この、遺影は奥様の政子さんが描かれたものです −

クラブからの弔意

「星を愛し、星になった高橋さん。あなたは私たちや多くの子供たちに、
星空のすばらしさを教えてくださいました。これからも天国から私たちの活動を
見守っていてください。アストロクラブふくやま会員一同」

 − ヘールボップ彗星 −
  この作品は、高橋さんが1997年3月30日に仙養ヶ原で、
  ニコンの300ミリ、F2.8レンズを使って7分露出で 撮影されたものです。

 

待ちにまった彗星  高橋奥様の政子さま

夫は居眠りをする私に
「星座を組んでいる星々は、全部太陽なんで」と教えてくれた。三十年前の事である。
「へえー、あの小さく見える星も太陽なん」
 自分自身で見える星を恒星と言い、太陽光を反射して光る木星、金星等を惑星という事も改めて教えてくれた。

「へえー、」 と、
 天文に関心を持たせるために、太陽から話してくれたのか。まるで空気のように感じて感謝を忘れていないか。

 太陽は光のキッスで朝を教え、草木、動物達に自然の恵みを与え、星の子達に追われて西空に沈んで一日が終わる。
 四人の子供達と育児戦争まっただ中の私は夜になるとすぐ眠ってしまう。

 ところが夫はのんびり型で、宇宙が相手、とにかく天キチであった。
 ゆっくりしゃべる夫、早口でせっかちな私、背中にねじがあれば巻いてやるのにと、いらつく日もあった。でも星の事だけは、尊敬できるものを持っていたので、我慢した。

 星は夜になると、きれいに見えるものとだけしか知識がなかった白河夜船の私に、根気よく教えてくれた。

 昭和四十八年、オイルショックの年だった。

 トイレットーパーの買いしめ、物価の値上がりがひどく、望遠鏡も上がるという。
 思い切って十五センチ反射望遠鏡を買った。ほんとうはコホーテク彗星が見たいからであった。

 望遠鏡は来たけれど、天体慣れしてなかったので、予報通り太陽の沈んだ西空を見るのだけれど、とうとう見つけることは出来なかった。
 「コホーテク彗星を見よう」という宣伝文句に踊らされたのでは、という疑問がずーとあり、最近星仲間に話したら・・・「良〜う見たでぇ・・」

やはり私達の勉強不足であった。このコホーテク彗星は、あと百万年もしなくてはもどってこない。

 十一年前のハレー彗星は、七十八年の周期彗星だった。福山の多田病院の院長さんは中学時代に一度見て、二度見る事ができたと、ラジオで喜びを語って居られた。

 この時も、早朝起きて、あちこち見に行ったけれど、高度があまりに低いため、ぼーとしか見えなかった。

 これまでに世界のどこかで観測され、軌道もはっきりしている彗星は七百個ほどあり、そのうち六百個ほどは、二百年をこえる長周期彗星である。このうち半数は、双曲線または、放物線と呼ばれるカーブを描いて、二度と帰ってこない。

 平成六年七月の、シューメーカ・レビー第九彗星のように木星に衝突して、消えてなくなるものもある。
 この時は、北部図書館の早川さんの熱心な「どうしても衝突するところが見たい」という要請があり、私達は不可能ではないかと不安に思いながらもその日を待っていた。
前日に仲間から衝突痕が見えたという情報が入り、当日は安心して見せに行った記憶がある。衝突の瞬間ではなかったが、
木星の自転は九時間ほどなので数時間前に衝突した痕が望遠鏡で見えた、大きいものでは一万キロメートル、つまり地球の大きさ位の衝突痕だそうだ。
 ちなみに木星の大きさは地球の十一倍もある。この彗星の」木星衝突の軌道計算をしたのは、日本人の中野主一さんだった。

 この彗星達はどこからやって来るのだろう。この疑問に、オランダのオールトという学者は、「太陽系のはずれに、無数の彗星が集まって雲のようになった所」から、
なにかのはずみに飛び出してくるという有力説をとなえている。

 その遠来の客を一昨年、百武さんはキャッチした。とてつもなく大きくなるという予報だった。我々天キチ仲間の喜びよう、
あちこちの天文台がコンテストするというから、皆目の色を変えていた。

 昨年三月二十三日、仙養が原 "いこいの里"の碑のそばで、太陽が沈むのを寒さに耐えながら待っていた。
茫々としたすすき野に、風が吹き荒れ、暗雲たち込め、回復の兆すら見せない。防寒服に身を包み、
コートの衿を立て靴底にはペッタンコと貼るカイロをつけていた。成長してくる霜柱を踏みつけるように足踏みしながら、
視界の広い空を見上げていた。車には望遠鏡を積んだままだ。どこか一か所でも雲が切れ、星の一つでも瞬いたならすぐセッティング出来るようにしていた。

 先発隊の後藤さんは、明るいうちに望遠鏡をセットして準備万端整っている。

 小川さんがやって来た。空を見上げて「来見小学校のほうが晴天率が高いですよ」
この方は、日食を追って世界中を巡り、写真や、ビデオを撮って来て、アストロクラブ会員に見せて、楽しませてくださる方だ。
「私たちは、来見の方へ行きます」と帰って行かれた。
 あまりの寒さに、風よけ小屋に入った。六畳一間のプレハブである。部屋の中には絨毯が敷かれ、バッテリーから蛍光灯がつくようにしてあり、携帯用のストーブが燃えていた。
この小屋は一昨年星仲間十数人で建てたものである。

「仙養が原に、観測所を作ろう」を合い言葉に話がきまった。

夫は十月に瀬戸町に天文台を作ったばかりであったから、どちらでも良かったのだけれど、人数が多いほど、個人負担が少なくてすむという、発案者の誘いもあった。
 五万円と引き換えに鍵をもらったのはそれからまなしであった。

「この鍵・・・五万円ですか!」・・・・ と、皆で笑いあった。
 時々外に出てみても、いっこうに晴れる様子がない。
「来見小学校までゆこう」と、夫と二人、三十分かけてゆっくりと来見小学校まで降りてきた。」

運動場のほとりに車を止めた。ライトに照らされた私たちを見て、車から森川先生が下りて来られた。

「今、来られたんですか」
「ええ、仙養が原が晴れないので、こちらに来たんですよ
「私達は、ここがだめなので仙養へ上がって見ようと思っていた所です」と、森川先生。

 どちらもだめか、としばらく立ち話をした。

 森川先生は

「せっかく来られたんだから、小学校の屋上の天文台へ上がってみませんか」

ドームの中には、二十五センチ反射望遠鏡がどかっと、据えられていた。
西空の雲が少し切れ、金星と月が顔を出した。

私は
「金星を見せてちょうだい」と、お願いした。係りの方は慣れないのか、なかなかレンズの中に入らないようだ。九時過ぎ外の方で「東の空が晴れだしたよ」と、
叫ぶ声。階段を急いで降りながら「誰が一番にみつけるかなー」、もう「うわー」と、いう歓声だ。

ここでは、福山市立高校天文部の生徒さん達が森川先生に連れて来られていた。
 東天のうしかい座のアークトウルスと並んで、百武彗星が見えている。
 なんとなんと、天女が長い衣をたなびかせ宇宙遊泳しているようだ。しかも肉眼で堂々と見えるのだ。

まるで夢の中の出来事のよう。

「生まれてはじめてだ」と、いう声がいっぱい。
 急いで、車から望遠鏡を出して、写真を写す準備をした。
 どこに手繰ってしまったのか、あっというまに雲のカーテンが引かれた。不思議である。

 夫たちは、一コマ写すのに大体十分位で、シャッターを切る。レンズの大きさで随分違った写真ができるものと、あとで思った。
 写真を写さない私は、車から降りて、時々自分の脳裏に写った残像にシャッターを切る。
 結局この夜は、朝まで晴れたまんま、天キチ達は大喜びでした。

 五時頃、太陽が星の子達を連れ去った。

天頂には一等星のアークトウルスと、百武彗星が仲良く並んでいつまでも光っていた。
運動場一面に霜柱が立っている。望遠鏡を据えた三脚がなかなか抜けない。やっと抜けた三脚の先には霜柱がこびり付いていた。

 ざくざくと音をたてながら、ゆっくりと車の轍を残して来見小学校を後にした。

 先日、北部図書館の早川さんから「三月末、ヘール・ボップ彗星を見せてください」と、いう電話が有った。

現在、百武彗星よりももっと大きな彗星が近づきつつある。

 

ヘール・ボップ彗星

 「おい、起きとるかヘール・ボップ彗星が見ようるど」
二月十四日、バレンタインデーの朝一番の声の贈りものだ。
百武彗星よりも十倍も大きいと予想されて天文仲間の待ちに待った彗星である。夫は二台の双眼鏡を用意して玄関で待っていた。時計は五時半を少しまわっている。太陽の昇る方向に向かって立つと、夏の大三角、琴座のベガ、わし座のアルタイル、白鳥座のデネブ達に守られて、オルフェウスの奏でることの調べにのって羽を広げて今まさに舞い降りようとしている。

 一昨年アメリカのヘールさんとボップさんが発見して以来、昨年の百武彗星を見ていた頃から「これよりももっと大きく見えるんだ」と言われ続けて
いた。
夏ごろには、へび遣い座に点ほどに見えるのを、府中の中谷さんは、写真に写して見せてくださっていた。私たちは肉眼で見えるまで待つ組だった。

それをやっと見たのだ。翌十五日アストロクラブの佐藤会長さんから電話が 入った。

「今朝の中国新聞に児玉さん、読売新聞に私の写真が載りますよ」
早速松永駅まで新聞を買いに行った。二部求め、ついでに、

「あの〜、昨日の朝日新聞はありませんか」

「売れ残りはその日のうちに返すからありません」と言われた。
朝日新聞には佐藤会長さんの彗星写真が載っていたはずなのだ。後日図書館でコピーをしてもらった。
急いで帰って新聞を見ると、児玉さんの写真にはカラーでイオンの尾がブルーに、ダスト尾が赤くVサインしたように写っていた。
羨ましい限りだ。何とかして夫にも写させてあげたいものだと思った。

翌十九日

「もし、もし高橋さんお元気ですか」

 御調町の池田さんから電話がかかってきた。この方は、七十歳を少し過ぎたアストロクラブ女性会員のなかでは最長老だ。九年前、クラブが発足した最初からの会員である。
ご主人が天キチというわけではない。自分で星に憧れて入会されたのである。

牛の飼育を専門にしておられて、夜中に子牛が生まれてその世話をした後、見上げた星の美しさに疲れなど吹きとんだ話。新しい星の情報など、電話があまりにも長いので行儀は少し悪いけれど、寝そべって話すのである。牛肉輸入自由化で値段が下がったと嘆いておられたが、昨年牛を手放されたそうだ。

「今朝、彗星を見ましたよ」

「えっ、三時半ごろ出て見たら曇っていましたよ」

「いいえ、黒瀬の吉田さんに電話で起こされて見ましたよ」

 我々星仲間の悪い癖 感動したらすぐ仲間に分かちあいたいのだ。
 たとえそれが夜中であろうと、眠い目をこすりながら欠伸をしていようが、
 自分がこんなに興奮しているのだから相手も興奮してくれるに違いないと信じているおめでたい集団なのだ。

 この吉田さんも数少ない女性会員である。
 お二人とも最近では、星を観るのも望遠鏡は重たくてもっぱら双眼鏡ということだ。
 二月二十二日よく晴れてよく見えた。明日こそはと、夫は望遠鏡を組み立てて枕元に置いて寝た。翌日、早起きはしたけれど、満月が残月となっていて明るくて駄目だった。
 それからずーと月は細くなりながら彗星に近づいて来るので当分写せなかった。
 一枚の写真を撮るのもなかなか難しいものだ。
 三月九日の朝、児玉さんに誘われて仙養が原で写したのが唯一いい写真だ。
「彗星のポーズも良いしいい写真ね」
と、言うと
「児玉さんに手伝って貰った」と、頼りなげだ。
 そういえば、オーストラリアで五年前写したいい写真も児玉さんに頼り、自分は寝袋のなかで、顔だけ出して蓑虫みたいだったじゃないと、おかしかった。

 ところが、三月三十日チャンスはやってきた。
 次男の車に乗せて貰って、182号線を七曲がり八まがり、北上していると彗星が見え隠れする。
 松永の光害のなかで観ていたのとはおお違い。中古ではあるけれど先日買ったニコンの三百ミの望遠レンズがウズウズしているはず。いい写真がとれる予感がする。

仙養が原いこいの里に着いた。
 昨年星仲間で作った麻田記念観測所のスライディングルーフは開いていない。仲間達はもっと奥だなと思って、ゆっくりとスモールのライトで車を進めると、
 三脚を林立させて撮影中の仲間たちがシルエットで見えた。

 もっと早く来れば良かったと、急いで赤道儀を据えて写す準備だ。三百ミリを本格的に使うのは初めてだけれど、佐藤さん、児玉さんのアドバイスを受けて来たのだから夫も心強いのだ。 しか寒さ冷たさには閉口だ。手がかじかんで、カメラのバルブを回すのが難しいと夫はぶつぶつと言う。
 じっと立っていれば、霜柱になってしまいそうで、自然に足が動く。
静寂を破るのはシャッターの音だけ。ひとこま写すのが大体七分、何枚写せたかしら、九時過ぎ頃やっとざわざわ人声がしだした。
 今世紀最大の彗星が太陽に最も近付き、かすめて行った。この日、夫は三十五年勤めた郵便局に別れを告げた。

 記念にこの素晴らしい彗星の写真を皆さんにプレゼントできて本当に良かったと思う。